天使の子供たち

光の中で育つ天使。
闇の中で育つ悪魔。
どちらも『何か』が欠けた存在ではないだろうか?

それならば人間は?
どちらの性質も持ち合わせた人間は
完全な存在なのだろうか?

そうではない。
だからこそ、人間というものは『不完全』な存在なのだ。
そして不完全だからこそ、成長することができる。
そんな存在なのである。







 沈黙……というものは、他人にどう思われているのだろうか。
 元々、蒼紫は喋ることは得意ではない。
 と、言うよりも、あまりそれを好まない。
 言葉は感情を表すものだと言われることもあるが、その感情的になることすら蒼紫には縁のないことであった。
 少なくとも一年前までは……だが。
 この一年で、自分はずいぶん変わったな……と時々思うことがある。
 それは多分……
「あれ? 俺なんか変なことしたか?」
 そんなことを考えていたせいだろうか、きっと顔がほころんで……というか、微かに笑ってしまったのかもしれない。
 それが、きっと目の前で慣れないこと……そりゃそうだ、普通に生活していたら、茶道のマナーとは殆ど縁なんてなかろう……をしている、蒼紫が『変わった』きっかけを作った人物、ルーファスには、何か自分の行動が可笑しいものに写ったのだと思ったに違いない。
「いえ、そうではありません。気になさらないで下さい」
 そう言って、蒼紫は穏やかに笑う。
 何しろ、変なことも何も…。
 大体この部屋……今日は、蒼紫の誕生日にルーファスがプレゼントとして贈ったお茶を振る舞うために、蒼紫がルーファスを自宅へと誘ったのであるが、見事な庭園の見える畳張りの部屋……多分ルーファスにとっては、未知との境遇に近い畳張りの和室である。既に『正座』の段階で、ルーファスが挫折しているということは言うまでも無いだろう(確かにきつい……慣れない人にとっては地獄の苦行だ)
 とはいえ、そんなところも自分は変わったのかもしれないな……と蒼紫は思う。
 以前の自分ならば、たとえ大変だろうが何だろうが、その地獄の苦行を強いていたかもしれない。
 よく考えれば、何と偽善者だったことか。
 正しいと思ったことを勧めるあまり、本当に大切なこと……他人に合わせるという、大切で肝心なことも知らなかった自分は、何と未熟だったのだろう……と今なら思える。
 今まで生きてきた十七年の月日より、充実していたこの一年。
 それはすべて……今、それでも頑張って、地獄の苦行に取り組んでいる人のおかげだろう。
 だが、こうして同じ時が過ごせるのもあと僅か。
 ルーファスが卒業するのは、もう一週間後なのだ。
 今まで何度か休日に街で出会う度、卒業後の進路について問いたが、何とも……らしいというか何というか、すっきりとした回答が得られていないというのが現状だ。
 噂では色々聞くのだが……ギルドから勧誘が来ているとか、学園のに残って教官になるように勧められているとか……。
 確か、あれは新年が明けたばかりのときだったと思う。
 休日に街で、やはりルーファスに会った時に、その噂の一つ……教官になるかもしれないという話をルーファス本人の口から聞いた。
 問題は……その時、何だか凄く嬉しかった自分の心情だ。
 何故なのか、自分自身で理解できない。
 教官として学園に残れば、もしかしてOBではなく顧問として、頻繁にアカデミーに顔を出してくれるだろう。いや多分、今まで通りとはいかなくとも、責任感の強いルーファスならば、とのような進路を取ったとて、アカデミーに顔を出すことだけは忘れないと思う。
 だが、それ以上にもしも教官となるならば、アカデミー以外でも会う機会はあるだろう。蒼紫は今、闘技学科を主に選択しているが、もしもルーファスが教官となるなら、来期は魔法学科を取ろうか……とか、そこまで考えがぐるぐる回ってしまうのだ。
 だけど……それは決して不幸な悩みではないから良いかもしれない……と、簡単に割り切ってしまい、またそんな自分に戸惑いを覚える。
 なに堂々巡りしてるんだか……。これも真面目に物事に取り組み過ぎなところもある、蒼紫ならではであろうが。
「ごちそうさま」
 ルーファスが茶碗を置く時に言った言葉に、蒼紫は考え中の思考回路を遮断する。
「いえ、どういたしまして。如何でしたか?」
「ん……抹茶って何だか苦いって聞いていたけど……まろやかって言うか、甘いって言うか……ちょっとは何か、苦いような……でも苦いって言うんじゃなくて……とにかく美味しかったよ」
「ありがとうございます」
 茶を点てるときは……その善し悪しは本当に心理状態で左右されるのだ。本当は無心で点てるのが一番な筈だが、今日ほど緊張したことはかつてない。
 そして……しばらく沈黙がその場を支配する。
 やはりこういうときにどういった話をしたら良いものか、蒼紫には分からない。
 人付き合いが余り得意ではないのは、この辺りが原因なのだろう、やはり。
 大体の者は、こういった沈黙が苦手らしくて……だんだんと疎遠になってしまう。
 それなのに……どうも何か……違うのだ。
 この一年の間、そんな気まずい沈黙の中に身を置いたことが殆どない。
 何時も誰かが話しかけてくる。そして会話が続いていく。もしかするとこの一年にした会話の数は、今までの十七年に匹敵している……いや、それ以上かもしれない。
 そしてその中心に何時もいるのは、ルーファスだった。
「蒼紫」
 沈黙に耐えられなく……ではなく、本当に自然の流れの中で、ルーファスが蒼紫の名を呼ぶ。
「一年間……本当にありがとう。蒼紫やみんなのお蔭で、アカデミーも何とか残ったし、本当に感謝しているよ」
「礼を言うのは私のほうです、ルーファス殿。ルーファス殿とお会いすることができたお蔭で、本当にこの一年でいろいろなことを学ぶことができました。本当に感謝しております」
「いや、本当に俺のほうこそ……色々助けてもらったし、そうだ、蒼紫には女装までさせちゃったよな」
「あれは忘れてくださいっ!」
 先月……寒終の月に劇場で起こった事件を解決するためにしたこと。
 劇場にさまよう死者の霊を成仏させるためとはいえ。
 蒼紫にとっては一生の不覚というか何というか……。
 もう二度と、出来ることならあのような姿はしたくない……と、真剣に思う。
「そういえばあの事件のしばらく後に、市場通りでアスモディアさんとカーチスさんに会ったよ」
「おや、それはまた……。元気そうでしたか?」
「うん。何でも正式に結婚したって。凄く幸せそうだったな」
 何だか凄く懐かしいような気がする二人の名前。
 あの事件から、まだ八ヶ月しか経っていないのに。
 雨淋の月に起こった劇場での奇怪な事件を、蒼紫はルーファスと共に解決した。
 原因は、劇の台本の召還呪文で呼び出された女悪魔・アスモディアが、人気役者のカーチスを好きになってしまったこと。
「アスモディアさんが言ってたけど、あの時、蒼紫の取った態度が凄く嬉しかったってさ」
「……え?」
「あの時、蒼紫、アスモディアさんにビシッと言っただろ? 悪魔の自分がやったことで、ああいって怒ってくれたのは、お前が始めてだったんだってさ」
 ……まあ普通は……確かに怒らないだろう。
 何しろ相手は、正真正銘の悪魔なのだ。怒る前にまず恐れる。いや、恐れる以前に忌み嫌われるだろう。
 それなのに、蒼紫は恐れることもなく、普通の一人の『者』として対処した。どうやらそれが彼女の心の琴線に触れたらしい。
「あの時は……何と言いますか、彼女がとても悪い人には思えなかったのですよ。カーチス殿を本気で想ってしまったことが、彼女に『悪』以外のことを教えたのかもしれませんが……悪魔が取る行動にしては可愛すぎるものばかりでしたし」
「確かにそうだね。ただの焼きもちだなんて本当に可愛らしい」
「悪魔の力を持ってすれば、カーチス殿を『魅了』することもできたでしょうに、アスモディア殿はそれすらもしなかった。それは……本当に人を好きになるということが、解っているからですね」
 本当に好きだから……でも、自分は悪魔だから、好きだなんて言えない。ても好きで好きでたまらない。自分以外の誰かが側にいるだけで、邪魔をしてしまいたくなってしまうほど。だけどそれでも、好きになって欲しいだなんて言えない。好きだとも言えないから……。
 その気持ちは、本当に『好き』でなければ持ちえないもの。相手のことを思うことなんて、普通の人間ですら出来ないことなのに、アスモディアはそれが分かっていた。
 ただちょっと……思い詰めて焼きもちを焼いてしまっただけのこと。
「そんな純真な人をただ悪魔だということで忌み嫌うなど、私には出来ません。ただ間違ったことをしていたからそれを咎めた、ただそれだけのことです」
「だけど……それがとっても嬉しかったんだろうね、アスモディアさんは」
 そういって、ルーファスは穏やかな笑みを浮かべる。
 ああ……やっぱりそういうことなんだ。
 ルーファスのこの笑顔が……とても自分を、穏やかにしてくれる。
 相手の幸せそうな笑顔が自分にとっても幸せだということは、それはすなわち……。
 今まで考えていたいろいろなことも引っくるめての結論。
 こんなにも簡単なものだとは思わなかった。
 導かれた結論に、蒼紫は思わずくすりと声を立てて笑う。
「……蒼紫? どうかしたのか?」
「いえ、何でもありません。ただ……嬉しいですね、そんな風に彼女に思って頂けるなんて」
 そして……自分の中で形づいた一つの結論も。
 蒼紫にとっては……とても大切なものだった。



人を愛することも信じることも知らなかった悪魔が、本当に誰かを好きになったら……。
その人のことをまだ『悪』と称することができるだろうか?
それは……分からないけれど、ただ一つ分かっていることは。
例えどのような存在であれ、誰かを好きになるということは……。
それはとても良いことだということ。


H091227脱稿