クリアポイント

 どうしよう。
 相手の事を、怒らせてしまったかもしれない……。


 澄み切った冬の空気が、ほんの少しだけど心に染みる。
 心の、ほんの少しだけ出来てしまった傷口から。
 このまま全身に広がってしまったら、凍死してしまうかもしれない。
 そうなる前に、何とかしなければ。
 とは思うものの……。
 ルーファスの口から出てくるのは、溜息ばかりであった。
 溜息一つ、寿命一年縮める……と言うが、もしそれが本当だとしたら、今日一日で自分の寿命はゆうに十年以上は減っているだろう。
 誰が悪いわけでもない。
 自分か一番悪いのだから。

 先程、劇場の入り口で蒼紫と会った。
 その時、聞かれたこと。それが原因。
 ルーファスの卒業後の進路の事。
 そのことについては、色々と……アカデミー内で噂がてんこ盛りで飛びかっていたのを、ルーファス自身も知っていた。
 だけど、本人にしてみれば……まだ考えていなかったのである。
 いや、全く考えていなかった訳ではなく、色々とある中から、どれをどうするということを決めかねていたのだ。
 だから答えた。
『今はアカデミーのことで手いっぱいだ』と。
 どうも……その答えが蒼紫を怒らせてしまったようだ。
 本末転倒だと……確かにその通りだ。
 アカデミーのことで忙しくて進路も決められないようでは仕方ないと思う。
 だけど……実はそればかりではない。
本当は、この居心地の良い所からいなくなる自分に対しての『恐怖』みたいなものがあったのかもしれない。
 それを感じたくなくて……。
 本当に駄目だな……と、ルーファスは自嘲する。
 いつまでも、今のままではいられない。
 それが分かっていながら、いつまでも結論を出さずに先延ばしにしてしまう。
 ……蒼紫を怒らせたのも、無理はないこと。
 そして、ルーファスはまた溜息を一つつく。
 やはり、謝りに行こうかな……と思い、だが、何となく気が引けて……。
 そんなことを考えていたとき、通りかかった花屋で、珍しい花を見つけた。
 薄紅の、仄かな香りのする花をつけている小枝。
 何か……蒼紫に似合いそうな気がして、それを数本買い求めた。
 別に、花でご機嫌取りなんて考えていたわけでは当然ない。そんな気が回るなら、もっと人生苦労なく生きて行けるはずだ。
 そして……


 目の前に広がる庭の風景。
 いつもなら、すぐに気持ちが落ち着くのだが、なぜか今日は、それが出来なかった。
 動揺しきった心情がそのまま、ずつと継続している。
 おかげで、せっかく見に行った劇の内容も殆ど覚えてはいない。
 蒼紫にしては、それはとても珍しいこと。
 元々余り感情を表に出すことのない彼にとっては、この動揺は今まで生きてきて、初めてのことだったのかもしれない。
 今までこんなにも…本気で困ったことはない。
 だけれどそれは仕方のないこと。
 あんなことを言った自分がいけないのだから。

 先程、劇場の入口で、偶然通りかかったルーファスに会った。
 その時に蒼紫が聞いたこと。
 それは、ルーファスの卒業後の進路のこと。
 ずっと、アカデミーの中でも、それは数々の噂としては流れているが、本人からそのことについての直接意見を聞くことがなかったので、気になっていたのだ。
 だから、ちょうど好い機会……と言うわけでもないが、先程そのことについての質問をしてみた。
 そして……その問いに対するルーファスの答えが。
 自分の心の中の『何か』に触れた。
 その答えとは……。
『今はアカデミーのことで手いっぱいだ』という言葉。
 その答えに対して、本末転倒だと言った自分に対しての言葉はなかった。
 もしかして……怒っているのかもしれない。
 人の進路に口を挟むべきではなかったのだと今は反省してみても、どうしようもなくて……それが心の動揺を招いている。
 それに……アカデミーのことで手いっぱいだということは……。
 それだけ、自分たちがルーファスをアカデミーに縛りつけているのではないだろうか。
 それが、ルーファスの言葉を聞いたときに、自分の心の中に触れた『何か』の正体だ。
 頼りになるアカデミーマスター。
 それがルーファスの進路に対しての妨げとなっているとしたら、それは……。
 紛れもなく、自分たちが原因なのだ。
 自分たちがルーファスに頼りきり、彼をアカデミーという枠の中に縛りつけてしまっているから。
 それなのに自分が……その原因である自分があのようなことを聞くべきではなかった。
 そう思うと、蒼紫は反省することしか出来ない。
 後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
 ルーファスに謝りたくとも、明日アカデミーで会うまではどうしようもない。
 そんなことを考えていたとき……。


 蒼紫の自宅の玄関に
 来訪者が訪れた。

「ルーファス殿?」
 蒼紫は、一瞬、現実を疑いたくなった。
 今一番会いたかった相手が……会って謝罪したかった相手が、目の前にいたのだから。
「あ……あのさ、蒼紫……さっきはごめん」
「先程は申しわけありませんでした、ルーファス殿」
 ……二人とも、ほぼ同時に言った言葉は、同じ意味の言葉。
 そして、お互い……戸惑ってしまった。
「と、とりあえず玄関では何ですから、お上がりください、ルーファス殿」
 それでも、何とかその戸惑い状態から先に脱出した蒼紫が、ルーファスを座敷のほうへと案内した。

 ルーファスの持ってきた紅梅の枝が、部屋の空気を和やかなものにしていた。
 そして二人で、温かい緑茶を喉に通しながら、本音を話し合ってみれば何て事はない。
 結局、お互いが相手の気持ちを曲解しすぎて、自分自身を反省していただけで、どちらも別に怒っていたわけではなかった。
「何かさ、こうしてみると、馬鹿みたいだよな。ちょっとこうして話してみれば何てことはないのに、勝手に落ち込んでたんだから」
「そうですね。しかし人間というものは自分の近くほど見えないと言いますし」
「全くその通りだな」
 だけど……見えないから、話すことが必要なのだ。お互いを理解する為に。
 だから……。
「私は、ルーファス殿の枷になっているのではないか……と、先程から思っていました」
「蒼紫……?」
「ルーファス殿が先程、アカデミーのことで手いっぱいだとおっしゃったときに、本末転倒だなどといってしまいましたが、よく考えてみたら、ルーファス殿に頼りきっている私たちが悪いのではないか……と。私たちアカデミーの者がもっと一人一人しっかりとしていれば、ルーファス殿ももう少し余裕を持って、色々なことが考えられるのではないかと、そう思い反省していたんです」
 まだまだ未熟な自分たち。
 蒼紫も、元々魔法に対する知識不足もあってか、どれだけルーファスに面倒をかけてきたのだろうか。
「それは……違うよ、蒼紫」
「ルーファス殿……?」
「確かにみんなが頼ってくれるから……アカデミーのことで忙しいのは確かだけど、俺自身がだからこそ、アカデミー以外のことなんて考えたくなかったんだ」
 卒業してしまえば、今の自分の『居場所』というものはなくなってしまう。
 もちろんそれは、新しい『居場所』を作れば良いだけのことかもしれない。そして、人はいつまでも同じ『場所』にはいられない。
 それは分かっているけれど……でも、今居心地のとても良いこの場所を動きたくなくて、ずっとそれに関する結論を先延ばしにしていた。
 それは自分の我儘であり、心の弱さである。
 そんな思いを、蒼紫には見透かされていたような気がしたのだ。
 そして、その心の弱さを蒼紫が怒っているのではないかと……。
「人間というものは……弱いものです。でも私はそれで良いと思っています」
「え……?」
「私は、そのようなことでルーファス殿を責められるほど、自分が強い人間だとは思っていません。それに誰だって、自分に対しての『変化』は嫌なものです。いつまでも続いて欲しい時間は……私にもありますしね」
 例えば、二人でこうして話をしているこの時間。
 この穏やかな時間がずっと続けば良いと思ってしまうのは、やはり自分の我儘だ。
 自分が心弱いものの一人だと、今ならそれが分かる。
 以前の自分なら、そんな弱さは認めたくなかった。
 強い意志さえあれば、どんなことだって耐えられると思っていたから。
 だが、弱さを弱さとして認め、受け入れるのもまた一つの勇気だと。
 それに気がついたのは……。
「人間にとって本当に大切なことは何か。それは自分だけでなく、他人の強さも弱さもその個性を認めて、それを受け入れることだと……それを私に気付かせてくれたのはあなたですよ、ルーファス殿」
「俺……?」
 当然、ルーファスにはそんな自覚はない。
 自分で自分が見えないとはよく言ったもので、本当にこれだけ自分がどれだけの者に愛されているか知らない者もいるくらいなのだ。
 ルーファスが、自分の『居場所』にこだわってしまう様に、みんながルーファスの側に『居場所』を求めているなんて、当然気付いていないだろう。
「だから……ルーファス殿は、そのままで良いと思います。まだ進路なんて考える時間はあるのですしね」
「そうだな……って、あんまりのんびりもしてられないけど……。それに、あと一回魔導検定もあるし……みんな大丈夫かな。これで落ちて廃部になったら洒落にならない」
「それは……私たちが頑張るしかないですね。そうならないように一人一人が。またよろしくご指導お願いしますよ、ルーファス殿」
 決局……何も変わっていないけれど。
ルーファスがアカデミーのことで頑張っているのも、蒼紫たちメンバーが、ルーファスを頼ってしまうのも、何も変わっていないけれど……。
 今はまだこれで良いのだと、二人は気付いていた。


「出来ればみんなといたいな。ずっと……とかじゃなくて、いつでも会うことが出来るような、そんな関係だったら、ずっと変わらずにいられるかもしれないな」
 帰りがけに、ルーファスの残した言葉が、蒼紫の心の中に一つの指針として残っていた。
 本当に、そうなれば良いと。
 そうすれば、自分もいつだって、ルーファスの側にいることができるから。
 たとえ『居場所』は変わっても、変えなければ変わらないものが確かにある。

 それは……人を思う心……。

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