深夜、とあるマンションの一室に、悲鳴が響く。
「いでーっ!いだだだ!た、玉藻っ!痛いって!」
「この位で、何死にそうな声を上げているんですか!?いつももっと酷い傷を負ったりしているでしょう?鵺野先生」
玉藻の手が、容赦なく片手で鵺野の膝を押さえ、もう一方の手が足の指を上体の方へと向かってぐいっと曲げていた。
「いでで…お前、普段もこんな治療しているんじゃないだろうな?患者が逃げるぞ」
「ご心配なく。そもそもこむら返り程度の治療で、そんな殺されそうな声を出すのは、あなたぐらいでしょう」
「んな事言ってもな、痛いもんは痛いんだよ!」
そう、この悲鳴の事の起こりは、深夜寝ていた時に、鵺野の右足がこむら返りを起こした事がきっかけであった。
「でも、大分楽にはなったでしょう?こむら返りは早期の対処法で随分治癒が違いますから」
軽く膝頭をぽんと叩き、玉藻が鵺野の足から手を外す。
「ん…まあ、そう言われれば確かにな。済まんな玉藻。こんな夜中に起こしちまって。しっかし…こむら返りねえ…運動不足の訳はないんだが」
開放された自らの足を軽くさすりつつ、運動しすぎとか言うならともかく…と、鵺野は呟いた。
「そればかりがこむら返りの原因では無いですけどね、鵺野先生の場合は、一人暮らしをしていた時の栄養バランスが良くなかったのが、今になって身体に出てきたんじゃないですか?」
…それを言われてしまうと、鵺野には返す言葉も無い。
何しろこの方、一人暮らしの時は、普段からカップめんの愛好者、更に休日ともなれば給食もない、加えてそもそも給食というのは、子供の栄養バランスを考えて作られている物なのだ。
それで成人男性がまともな栄養バランスを保っていた筈が無い。
「少し身体を暖めて解したほうがいいですから、温かい飲み物でも入れてきますよ」
「いやいいって!その位自分で…」
玉藻の言葉に、慌てて鵺野は身を起こそうとするが。
その時に、先程の処置で楽になったはずの、右の脹脛がびきっと痛みを訴える。
「ほら御覧なさい。まだ無理はしない方がいいですよ」
悔しそうに再びベッドに突っ伏す鵺野の様子に、微かに笑いながら玉藻はキッチンの方へと足を向けたのであった。
玉藻は、冷蔵庫の中にあったミルクを取り出し、それを鍋へと入れると火に掛ける。
ただそれだけの作業なのに…何故こんなに自分の手は震えているのか。
どくどくと血管を流れていく血流の音までもが、耳に届くような…そんな心地。
そう、明らかに自分は動揺している…。
ふう…と深い息を零し、玉藻はそれでも平静さを取り戻そうとしていた。
どうして自分は、こんなにも動揺しているのか。
その理由は自分でも分かっている。
先程の鵺野の、こむら返り騒ぎの件が原因だ。
突然の呻き声と、苦痛を訴える仕草に…本気でどきりとした。
勿論、表面上は平静に、普段医師として患者に接するのと同じく情況とその状態を判断して、それがただのこむら返りだと分かった時には、本当に心底ほっとしたものだが。
何故…鵺野とずっと一緒にいながら…この部屋で共に暮らしながら、自分はその事をすっかりと忘れていたのか。
どれだけ霊力が強かろうと、自分よりも強い力を持とうと、鵺野は人間なのだ。
自分たち妖の者に比べれば、遥かに寿命が短い、普通の…。
あの時に、瞬時でその事を思い出した。
人の命というのは脆い物だ。
それは、妖の者としてたけではなく、病院に勤める医師としても知る事であった。
そう、医師としても何人もの人間が、その命を終わらせる瞬間に立ち会っているのだから。
…鵺野だけが、特別だという事は決して無い。
紛れもなく、鵺野もそういう意味では普通の『人間』なのだ。
そして、その事を思い出した時に、自分が感じたのは。
もしかしたら、今、このままこの人を失ってしまうのではないのかという事。
手にした筈のこの存在が…妖の身でありつつ、人間の存在を欲するなどと、かつての自分では考えもしなかった事だが、鵺野の存在を欲していた自分を誤魔化す事は玉藻には出来なかったのだ…そこまでして、得ようとした存在が、そして手に入れたそれが失われる事。
それを思っただけで、手が震えて仕方が無かった。
確実に…それはいつかは来る日の事だと…。
はっきりとそれを意識してしまった。
温まったミルクをカップへと注ぎ、少量のブランデーを落とす。
僅かに広がる芳香。
それが無くならないうちに、カップをトレイに乗せて、寝室の方へと戻ったのであるが。
「鵺野先生…?寝てるんですか?」
ベッドの上には、すっかり心地良さそうな寝息を立てている鵺野の姿。
一瞬、起こそうと思い手を伸ばしたが…その手は軽く、鵺野の髪を撫で付けただけで引き戻した。
「全く…人の気も知らないで、平和な人だ…」
トレイをサイドボードに置くと、ベッドの上へと腰を降ろし、暫し先程と同じ動作…すっかりと夢の国の住人と化している鵺野の髪を、起こさないようにとゆっくりとした動作でそっと梳く。
いつまでこうして一緒にいる事が出来るのか…。
考えたとて、それはどうしようも無い事である。それは分かっている。
だけど、出来るならいつまでも、こうしていられたらいいと。
それが今の願い。
いつかその日が来たらどうなるかなどと、そんな事を考えられなくなる程、こんな充足した日が一日でも長く続くように。
それが…今の玉藻の一番の願いだった。
H19.8.16 脱稿