神の天秤

 如月は、劉に対して、余り好意的ではない。
 …と言っても、元々、他人を好きになるということ自体が余りないものだから、それは劉という人間に限ったことではないのかもしれないが。
 それでも、彼の使っている関西弁が嫌いだと公言して憚らない以上は、劉の事が嫌いだという『意味』で、それはつまり、他の仲間以上に嫌いだと取られ、それゆえに…こんな誤解をされてしまったとしても、それは仕方のないことなのかもしれない…。



「おや? いらっしゃい。君が一人で来るなんて、珍しいことだな」
「そんなに珍しいかな…?」
 如月の言葉に龍麻は微かに苦笑を浮かべつつ答えた。
「珍しいだろう? 君が来る時には必ず誰かが付いてきているからね。蓬莱寺君や醍醐君…最近は劉と来ることも多かったな」
「ん…ああ…まあ…」
 何とも龍麻らしくない歯切れの悪い返事に、如月は軽く首を傾げる。
「どうしたんだい? 一体…」
「あのさ…如月…怒ってない?」
「…………は?」
 真剣な顔で突然この様な事を聞かれ、危うく如月は、手にしていた古書(店の売り物)を落としかけた。
「一体何の事だい? 君は…突然変な事を言い出すのが好きなのか?」
「そういう訳じゃないんだけどね…。あ、もちろん俺のことをじゃないんだけどさ…」
「それじゃあ一体、僕が誰のことを怒っていると?」
「だから…劉のことなんだけどさ…」
 …そういうことか…。
 龍麻の言葉に如月は、心の中でため息をつく。

 事の起こりは昨日の夕方だった。
 アランと劉と雨紋の、これがまた賑やか過ぎる来客で。
 その時に起きた出来事…。

 床に落ち、割れてしまった壷。
 半泣き状態で謝りまくっていた劉。
 そんな彼に、自分が示した態度は…。

「何か、劉が無茶苦茶落ち込んで、俺の所に来たもんだから心配になってさ。余計な世話やくなって京一には言われたんだけど、心配だったし…」
「成程。つまり君は、わざわざ人の店で売り物の壷を粉みじんにした他人の為に、自分がここまで謝罪をしに来たという訳か?」
 もしそうだとしたら、これ程腹立たしいことはない。
 いくら龍麻でも、面倒見が良すぎる。
 確かに、先程京一が言っていたという、余計な世話に他ならないだろう。
 大体劉は、ちゃんとその時に謝っている。
 そして…自分は…。
「いや、そうじゃないよ。悪かったのは劉みたいだし、あいつちゃんと謝った筈だろ? そういうことはしっかり出来る奴だしさ」
 …さすがに良く分かっている。
「ただ…如月が怒ってなかったから、劉がそれをすごく気にしてるんだ。だから怒っているんじゃないかって」
 どう考えても矛盾している龍麻の言葉に、如月はしばし考え込む。
 そう、壷を落として割った劉に対して、自分は怒ってはいなかった。
『仕方のない奴だな…』
 ため息交じりにそう呟いただけで。
 それは別に、不可抗力の事故であり、それに高価な物なので、ちゃんと保険も掛かっているから、如月にとってはそんなに損害のない……確かに、貴重な骨董品が割れたのはショックであるが、だからといって劉のことを責めたてたとて、どうにもならないことだから。
 なのに何故…?
 やはり、どう考えても…
「言っている意味が良く分からないのだが…]
 そういう結論になってしまう。
「だって如月、いつも劉に対して結構きついだろ? それなのに今回だけはあっさりしてたから…それで本当は怒り過ぎて呆れ過ぎて、だから何も怒ってくれないんじゃないかって、劉は気にしてるみたいなんだ」
 …どちらかというと、今の龍麻の言葉の方に、如月は呆れてしまった。
 もちろん、龍麻に対してではなく、劉にである。
「…で、それで、僕が本当はどういうつもりでいるのか聞きたくて、君はわざわざここまで来たという訳か。全く…君は劉に本当に甘いな」
「そうなのかもしれないな。だけど…何かほっとけなくてさ。それで…やっぱり怒っているのか? そりゃあ劉はあの通り関西弁だし、それが如月に嫌われている原因だって本人だって分かってはいるし、だけど…」
「龍麻、『神の天秤』という言葉を知っているかい?」
 突然、話の腰を折るようにそう告げた如月を怪訝そうに見返しながら、龍麻はその如月が言った言葉を反芻する。
「神の…天秤?」
「以前…母が生きていた頃だったから、まだ僕は子供だった時のことだが、父が大切にしていた発掘物を僕が壊してしまったことがあってね」
「そういえばお父さん、考古学者だったっけ」
「ああ。その父の大切にしていた物だ。歴史的価値もあったものだったかも知れない。それを自分のミスで壊してしまったんだ。父に絶対に叱られるだろうと思っていたよ」
 だが、その時…
 如月の父は、彼を叱ることはなかった。
 それどころか、破片で怪我をしていないかと、見ていた母がそんなに心配しなくても…と思うほど、自分の事を心配してくれたのだ。
 今は、滅多に会うことのない父親ではあるが、その思い出が深く心に残っているから、いつまでたっても、例え数年に一度しか帰って来ない父でも、自分は父のことを嫌いになれない。
「…その時に、父から聞いた事が『神の天秤』の話なんだよ」
 神は時として、自分の周囲にいる者と自分の大切な何かを天秤に掛けるという意地悪なことをしてくれる。そこでどちらを選ぶのか…それは完全に二者択一であり、天秤の皿が上にいったもの…軽い者は、上にいる神に掬い上げられて、決して自分のものにはならない。
 だから…判断を誤るな、自分にとって本当に必要な物は何なのかを考えろ。例え感情的になったりして、一瞬は判断を誤っても、気が付けばいつでも神の天秤は向きを変えるだろう…そんな話。
 当時子供であった自分には難しくて、良く分からなかったが、今なら分かる。
 父が自分を選んでくれたからこそ、今の信頼関係があるということが。
 だから…
「だから、僕は本当に劉の事は怒っていないんだ。わざとやった訳でもないのだし、それに…彼だって大切な仲間だからね。こんな事くらいで、嫌いになったりしたくない。僕にとっては割れた壷よりも、劉との関係の方が余程大事なのだから」
「…如月、劉のこと…元々嫌ってなかったのか?」
 多分、みんながしているであろうこの誤解。
 それゆえに、今回のようなことになってしまった。
「劉のことは嫌いな訳ではないよ。ただ、感情的になってしまうのは、あの言葉がやはり引っ掛かってしまうのだろう。ま、喘息やアトピーのアレルゲンのようなものだからな、僕にとっての関西弁は」
 如月の例え話に、微かに龍麻は吹き出してしまう。
「だから…僕の方こそ済まないと彼に謝っておいてくれないか? 僕が直接言った方がいいのだろうが……」
「分かった、伝えとく。劉に直接言ったらまたアレルギーの発作起こすの必至だもんな」
 今度は、如月の方が吹き出してしまった。
「だけどさ…アレルギーって、直せるって知ってるか?」
「ああ…分かってはいる」
 このままではいけないことも。
 いつまた…このような誤解が起きないとも限らないから。
「頑張って…みるつもりではいる」
「前向きだな。それじゃあまたくるよ」
「ああ。…劉にもまた立ち寄るように言ってくれ」



 神の天秤…
 自分は選択を誤らなかっただろうか…?
 その答は…自分だけが知っている。
 大丈夫だ…と。

H11,9,9脱稿


以前の政策記録に『すごい矛盾(間違えたんです…解釈を)あります』けど、現在その矛盾がどこに存在しているのか分からない…。
もしどこか見つかったら、こっそりと直しておきます。
公式設定の各キャラ好き嫌いで、如月が劉の関西弁嫌いとあったので書いた話でした。