おうちに帰ろう

「なあ、ひーちゃん、ずっと不思議に思ったんだけどよ?」
 京一の疑問符付きの言葉に、俺はイカと格闘中であった、包丁を持つ手を一時止めた。
「何?京一」
「ひーちゃんちって、一人暮らしにしちゃあ、何か広いんだよなーって思っただけなんだけどな」
「…ああ、その事。確かにそうかもね。この部屋本当は、ファミリー用だから」
 疑問が判明したので、簡単な回答を示すと、俺は再びイカとの格闘に戻る。
 新宿区内の2DK。一人で暮らすには確かに広いのかも知れない。
「何でまた、そんな部屋に住んでんだ?いや、家庭の事情ってなら詳しく聞かないけどよ」
「そんなんじゃないよ、別に」
 疑問には思うけど、言いたくないことには突っ込んでこない。
 本当に、何か…京一らしいなって、俺は思う。
「ただ…ワンルームだと、この新宿界隈で希望する価格帯だと、キッチンがみんな電気なんだよな…。だからなんだけどね」
 イカとの格闘の末勝利した俺は、この部屋に住む『原因』となったガスコンロに火を付ける。

 …本当に、そんなばかばかしい理由なのかというと、実はまったくもってその通りなのである。
 最初…こちらに一人で住むこととなった時に、当然探したのは一人住まい用のいわゆる『ワンルーム』
 贅沢なんてする気はないし、学校行って、戻ってきて、ご飯食べて寝るための部屋だから、それだけの広さがあれば、本当に十分だったはずなのだ。
 …キッチンが狭い上に、電気でさえなかったら。
 それでも、最初は一人暮らしなんてこんなものなのかも…と、我慢をした。
 …3日が限界だったけど。

 人間が、人間らしく生きていく上で、大切なのは『衣食住』の三つ。
 衣は、家から持ってきた服もあるし、大体学生である以上は制服が基本だから困らない。
 住は、一人暮らしするだけなら、ワンルームの広さがあれば十分だろう。
 しかし…10分たって、やっとお湯が沸かせる電気コンロと、普通の大きさのまな板が置けないキッチンで、どうやってまともな食生活が営めるものか。

「それで…結局、新しく探したんだけど、最近のワンルームは電化キッチンが主で、ガスコンロのキッチンだとファミリータイプになるって言われて、この部屋になったって訳」
 テーブルの上に、先ほど格闘していたイカ、えのき茸、椎茸、青菜、人参を炒めて、軽く塩と胡椒で味を付けて、素材から出た水分を片栗でとろみを付けてちょっとあんかけ風になった炒めもの、卵ときくらげの中華風スープ、大根とほたてで作ったサラダを並べ、部屋探しの顛末を、俺は京一に説明した。
「ふーん。何か複雑って言えば複雑、単純っていえば単純だよな。ま、俺としちゃあ、そのお蔭でひーちゃんのうまいメシにありつけるんだから、ありがたいってもんだけどな」
 笑いながら京一はそう言うけど、本当に助かっているのは、俺の方なんだよ?と、心の中で呟く。

 京一がこの部屋に良く来るきっかけとなったのは、6月の梅雨時のふいな雨、そして俺も京一も傘を持っていなかったのが原因だった。
 美里は生徒会の会議、醍醐と小蒔は部活(ちなみに、京一は当然サボリだが、この頃はもうそれが京一の『普通』なんだと納得していた)
 そして、真神から京一の家に行くよりも、俺の家の方が近いから、家に来れば傘もあるし、着替えもしていけば良いと思って誘ったのがきっかけ。
 それ以来、京一は良く来るようになったんだけど…。
 …多分、京一は知らない。
 広いけど、ファミリー向けのこの部屋で、その雨宿りの時に初めて誰かと向かい合わせでご飯を食べた時に、俺がとても楽しいと思ったことを。
 それまでは…何か寂しかったこの部屋が、何となく暖かく思えたということを。
 それこそ帰ってくると時々寂しくなって、うがい薬のコマーシャルに出てくるカバ君がいたらいいのになあ…なんて、本気で思っていた位だ。
 もちろん最初は、寂しかっただけだから、誰が来てくれてもそんな気分になったかも知れない…なんて思ったりもしたので、色々と頭の中でシミュレートしてみたけど…。どうしても京一だけみたいだ。こんな幸せな気分になれる相手は。
 どれだけ、俺がその事で京一に感謝しているか、本人は本当に知らないだろう。
 もちろん、京一が知らないことはそれだけじゃ無い。
 あの雨宿りの日…着替えに貸した俺のシャツとチノパンツは、京一にはちょっと窮屈だったみたいだけど、今着ている『俺が貸しているはずの』この部屋での普段着は、京一にぴったりのサイズだ。
 最初に泊まっていった時に俺が貸していたパジャマ。母親が俺の好きなオレンジで選んだ、ちょっと明るめの可愛らしいパジャマだったけど、今京一が泊まっていく時に『貸している俺の着替え』のパジャマは、ブルー系の落ち着いた色合いのものだということ。
 そして、今京一が、俺の作った食事を食べながら使っているご飯茶碗と湯呑み。
 最初にうちでごはんを食べていった時は、一応揃えておいた来客用の5客一組の梅の柄の茶碗と湯飲みだったはず。
 今使っているのは、それとは違うだろ?

 それは全部、京一の『もの』だから。
 他の誰のものでもなく、この部屋にあって然るべきな、京一のもの。
 そんな事を考えいたら、楽しくなってしまったのだろうか。
「なんだよ、ひーちゃん。何楽しそうに笑ってんだ?」
 なんて、京一に突っ込まれてしまった。
 どうやら顔が自然に綻んでいたらしい。
「何でもないよ。ただ…こうやって誰かとご飯食べるのって、やっぱり良いなって思っただけで」
 別に嘘は言っていない。
「ところで、今日泊まっていくんだろ?」
「ん?ああ、いっつも悪ぃな。何かさ、居心地いいんだよなー、ひーちゃんちって。変に遠慮しなくて済むからかもしれないけどよ」
「そう言ってもらえると、俺の方も嬉しいな。変に遠慮されるのも嫌だから。気軽にしてくれると本当に助かるよ」
 にっこりと笑って俺は答える。
 もちろん、この『にっこり』には、別の意味もこもっているけれど。
 居心地がいいって言ってもらえて、本当に嬉しいから。
 その為に、色々と頑張っているんだから。
 …もちろん、京一には内緒だけど。

 だから…これからもずっと、来てくれるといいな。



 そして…これは龍麻の知らないお話。

 自分が遊びに来るたびに、色々と『変わっている』事に、京一は気が付いていた。
 初めは『制服だと大変だろ?俺の服だけど着ていろよ』と言って渡された普段着の着替え。
 最初に雨に濡れて、やはり龍麻の服を借りた時にはちょっときつめだったその『龍麻の服のはず』な着替えは、自分の身体にぴったりだった。
 そして、2回目に泊まっていった時に『俺の着替え用のパジャマしかなくてごめんね』と言って、龍麻が貸してくれたパジャマは、普段龍麻が余り身に付けていないブルー系。
 他にも色々と…少しずつではあるけれども、確実に変わってきている。
 まるで、自分がここで過ごしやすくあるかのように。
 だけど、その事について何も言わないのは…龍麻が本当に楽しそうにしているからだということが理由の一つ。
 そして、もう一つは…。
 自分が本当に、ここに来ることを…龍麻の側にいることを望んでいるから。
 少なくとも、自分からそれをぶち壊すようなことは絶対にしない。

 だから…これからも、自分はここに来るだろう。
 自分だけに与えられたこの『空間』…龍麻の一番近くに。

 お互いに知らない、お互いの『本音』
 だけどそれは、知らなくてもいいことなのかも知れない。
 今が十分幸せだから。

H13,1,28(日)脱稿


元ネタは…というと、友から聞いた話です。
この話を書いた当時の話ですが、本当にワンルームのキッチンって全然駄目駄目だったそうです。
パジャマのカラーとかは、あんまり深く考えてませんでした(^^ゞ好きな色とか設定に無いしな。