ゆきのはなふる



「秋に咲くという、桜の話を知っているか? 佐助」
 あれは、夏の暑さがまだかなり厳しい頃の話。
 主である幸村にそう問われ、勿論そういう種類の花があるのは知っていたが、あえて佐助は知らない振りをした。
 何故なら。
「そうか、佐助でもやはり知らない事はあるのだな。尤も俺も実際には見たことはないが、何でも春と秋に二度咲く種類の桜があってな……」
 ほら、やっぱり佐助が思った通り。
 幸村は満面の笑みを浮かべて、そしてとても楽しそうに桜の話を始める。
 その笑顔と、そして明るい声を聞いていたくて。
 だから、知っていた事でも知らない振りをしてしまった。
「今度その花が咲く頃には、一緒に見に行きたいものだな」
「そりゃあいいけど……どこにその桜が咲いているのか知ってんの? 旦那」
「そ、それは……分からないが、きっと何とかなる」
 笑みのままに幸村が言った言葉に、佐助がちょっと意地悪そうにそんな返答をすれば、その笑みがちょっとだけ翳ってしまい、口調も少しだけど拗ねたものになってしまう。
「しょうがないねえ、俺様がばっちりと見つけておくとしますかね」
 そんな幸村のころころと変わる表情も好きだけど、やっぱりこうして話をしている時には笑っていてほしくて。
 だから、俺様は旦那のこと甘やかしているのかね、やっぱり……と思いつつもそう言えば、幸村の表情には再び笑みが戻る。
 ああ……違うな、これは多分。
 甘やかしているのではなくて、佐助自身が心地よくなりたい為に他ならないのだ。
 そんな事を心の中で呟く程、自らの胸の裡に生じているこの思いが一体どのようなものなのか、当然佐助は自覚していた。
 勿論、それを目の前にいる対象者に言う事は、ずっとないだろうとは思っていても。
「ならば、秋には桜の花見が出来るな、当然花見には団子は必要だぞ、佐助」
「あー、やっぱりそう来ますか、本当に旦那は団子好きだねえ」
 それでも、こんな他愛の無い会話を繰り返しつつも、ずっとその側にいられればいいと。





 秋になったら、一緒に花見だと。
 絶対に、一緒に行くのだと約束をしたのは夏の日。
 だけど……その約束は、どうやら守れそうにない。
 もう身体が……既に自分の意に従わずに、指一本すら動かす事が出来ない。
 そして、自らの身体を飲み込むように迫り来る炎の中で、佐助はそれでもやはり、幸村の事を考えていた。
 花見の約束だけでなくて、もう自分は彼の人の側にはいられないのだと。
 死を意識したその瞬間に思ったのは、その事だった。
 全く、自分の命が失せる事より、そうなった時にどんな表情を浮かべるのか、そんな事が気になる辺り、もうどうしようもない。
 勿論死んでしまえば、佐助がそんな幸村の顔を見る事はないのだけど……あの優しい主は、きっと自分の為に泣いてくれるのだろう。
 それはあまり見たく無い顔だから、見なくても済むのは幸いかもしれないけど、それでも。
 出来れば、自分なんかの為に泣いて欲しくないなあ……。
 あんなに楽しみにしていた、約束すら守る事が出来ない奴の事なんて、罵ったっていいっていうのに、多分……いや絶対にそんな事はしないんだろうと。
「旦那……済まねえ……」
 約束が守れなくて。そして…もう側にいて話を聞くことが出来なくなる事に対して。
 その言葉は、果たしてちゃんと言葉として発する事が出来たのか、それすらも分からないけど。
 そして当然、本人には伝わる言葉ではないのだけど。
 だからこそ……言いたかったのかも知れない。
「俺は……ずっと旦那の事が……さ………」
 続く言葉は、そのまま佐助の胸の裡で呟かれ。
 そして、意識はそこでぷつりと途切れた…。





 声が聞こえる。
「佐助、今日はいい天気だぞ。絶好の鍛錬日和だ」
 元気良く弾む声は、間違いなく幸村の声だった。
 この調子じゃあ、鍛錬日和……とか言いつつ、もう既に大将と一戦やってんじゃないの? と、そんな事を佐助が思ってしまう程の元気の良い声。
 きっと、気分良くあのいつもの…佐助が好きな笑みを満面に浮かべているに違いない。
 うん…やっぱり旦那は元気なのが一番良いよ。
 声にならない声で、佐助は呟いた。

   何となく、しとしとと水の音と気配がする。
 ああ、今日の天気は雨なんだな…と。
 だからだろうか。
「生憎の天気なのは仕方がないか、こういう時も無ければ、作物は元気に育たないものであろうしな」
 時折、紙の捲くれる音が聞こえるのは、多分天気が良くない故に鍛錬にもならず、兵法書の類を読んでいるに違いない。
 戦闘ではそれこそ猪突猛進というのが一番ぴったりと合いそうな行動の幸村だが、結構しっかりと色々考えて動いているのだという事は、身近にいる佐助が一番よく知っている。
 ただ、それでも時折その暴走が止まる事無く、自分がその行動出てきた穴を補っているのだが。
 尤も、兵法書の定石通りの作戦に従って、大人しく論理的に遂行するような幸村は、多分とっても幸村らしくないだろうから、今のままで充分だと思ってしまう辺り……。
 やはり幸村には甘いのかもなあと、そんな風に佐助は思っていた。

「だいぶ紅葉も進んだな……さすがに秋の桜は……今年は見られなかったか。お前が場所を調べてくると言ってたのにな」
 ……多分、佐助の中でも、これが一番引っかかっている事。
 うん……ごめんね、旦那。
 本当は、ちゃんとそうやって声に出して謝りたい。
 今の自分に……それは出来ないけど。
「でもまだ春の桜もある、それに…来年は絶対に一緒に花見に行こう。約束したからな、佐助」
 ……んな一方的な……。
 守れるかどうか分からないし、今は返事すら出来ない相手に、そんな一方的に約束してどうすんの、旦那ってば?
 やはり声には出来ない思いは、心の中で呟く。
 本当は守りたいんだけどね……花見の約束も。
 そして……その約束を交わした本人の事も。
 だけど、今の自分にはそれは出来ないから。
 だから、声にならない声で、ずっと謝り続けるしかない。
 「気温もかなり涼しく……いや、むしろ寒さが増してきたか。寒い方が紅葉は綺麗だというが、俺にはいつもよりもこの寒さが厳しく感じるぞ……」
 でも毎年、冬に向かう寒さの中でも、いや、真冬の雪の中でも、いつもと変わりなく朝から鍛錬に打ち込んでるでしょ、旦那は。そして時間がある時には人の背中合わせに座って暖を取っていたよね。
 何かそんな事ですら、懐かしく感じてしまう。
 毎年……そして毎日のように繰り返されていた事だというのに。
 雪の降る冬は、戦場に立つ者達にとっては、一番の休み時だから。
 そんな風にのんびりとする時間が一番取れる時期だから。
 だから……ずっと言わなかったが、本当は冬が一番好きなのかもしれない。
 それを認めてしまう事は、戦場に立つ身として、そして忍びとしても失格ではないかと思ったから、ずっとそんな気持ちを誤魔化していたけど。
「これがもっと寒くなってても……お前の背で暖まる事も……出来ないのか、佐助」
聞こえてくるのは、そんな沈んだ声。
 ……そういう声は、余り聞きたくない。
 そして……ぽつぽつりと感じる……掌に落ちる雫。
 もしかして……旦那、泣いてる?
「いつになったら……目を覚ますんだ、佐助……?」
 切ない……辛い、悲しい……そんな感情が、その声色から伝わってくる。
 聞きたくない……そんな声は。
 そして見たくない……泣き顔なんて。
 いつも元気良く笑っていて欲しいから。
 だから……。

 泣かないでよ、旦那……。
 そう言いたかった言葉は、喉につかえた様で、出ては来なかった。
 そして、本当に……久し振り……というよりも長い間見ていなかった幸村の表情は。
 やっぱり、自分が思った通り……大きな目から、はらはらと涙の粒を流し、それが自分の掌に落ちていたのだ。
 その手も、幸村の手にぎゅっと握られていたけど。
「さ…すけ?」
 名を呼び、そう問いかけてくる幸村の表情が。
 泣き顔から一転して、驚いたような表情となり。
 手を握る仕草に力が加わる。
「……ぁ……ぅ……」
 何がどうなっているのか…佐助自身がまだ状況を全く把握できておらず、それを問おうとするのだが、喉から言葉が出てこない。
 何? 一体どういう事で、どうなってんの?
 そもそも佐助にとっては、こうして生きている事自体が、一番の謎だったのである。
 だから、その事を聞きようにも、肝心の問いかけも出来ず。
 何度か口をぱくぱくとしても、出て来るのは殆ど呻き声に近い声ばかり。
「無理をするな佐助、数ヶ月も意識が無かったのだからな」
 え、そんな長い間……? うわー、何かそれって俺様すごくない? と、声がまともに出たのであれば、そんな風に言ったのかも知れないが、それより何より、まだ先程か らの混乱は収まらず。
「と…とにかくまだ動くな、今、医師を呼んでくるからな」
 泣き顔を見られたのが自分でも気恥ずかしいのか、繋がっているのとは反対の手で、涙に濡れた顔をぐっと拭うと、そう言って繋いでいた手を離して幸村が立ち上がる。
 一体本当に、どうなっているんだか…?

 自分が今いるのは、忍び小屋にある自分の部屋だと分かったのは、幸村が出て行った後で。
 まだかなり状況も分からず混乱しているのだけれども。
 一つだけ、確実に分かっている事がある。
 ちゃんと自分が生きている…という、その一つの事実だけは。
 忍軍の配下の者が炎に気付いて、山崎の山頂で佐助を発見した時には、どうやら本当に棺桶に片足を突っ込んでいた状態だったらしい。
 普通の者なら、確実に命は無かったはずだ、常に鍛えられた者だから、かろうじて助かったという医者の言葉がかなり重い。
 そして……自分が助け出された時とほぼ同時に、あの山頂に上杉忍軍の姿もあったという事だから……その場で戦闘にならなかったのは、双方怪我人を抱えていた事と、山頂が既に火の海であった事。
 ならば、自分と一緒にいた筈のかすがも、助かっているかもしれないと、佐助は考えていた。
 今は敵同士ではあるが、元々は同郷の者、出来れば助かってくれていればいいと思う。
「かなり長く寝ておったのだ、まだ神経がしっかりと繋がってはおらんじゃろうし、その内に元通り声も出るし体も動く。まずはちゃんと寝ていた間に取れなかった分、栄養を取る事じゃな」
 昏睡状態があと暫く続いていたら、確実に衰弱死していただろうと言って、一通り診察を終えると医師は室を後にした。
 状況と、今の現状を知って、やっと佐助の頭の中で、全部の回路が繋がった。
 そんな気分を佐助は感じていた。





   それでも、まだ分からない事がある。
 だけどそれは……自分の口でじかに聞きたいから。
 だから今はとりあえず、今の自分に出来る事をしよう。
「佐助! まだ起きては駄目だろう!?」
 一週間も経てば、それなりに回復もし、何とか動く事も声を出す事も出来る状態までにはなっていたが。
 それでも、しっかりと治るまでは無理をしては駄目だという、幸村からの半ば強制的な『命令』で、ずっと佐助は寝具の中に押し込まれていた。
 そして、今みたいに、少しでも外に出たりすると、この剣幕だ。
「いや、もう大分動けるし? って、それよりも旦那、しょっちゅう俺のとこなんか来ていてもいいの?そんなに暇じゃないはずでしょうに」
 たしなめる様にそうは言っても、本気で佐助も迷惑がっているわけでも叱っている訳でもないから、当然効果は無いのだが。
 ましてや季節は冬に近付いている。
 冬になれば戦は殆ど無くなる。
 雪と寒さに覆われた地まで攻めてくる者もなくなるからだ。
 だから、普通の季節よりは、こうして時間が取れるのであろう。
「とにかく、医師もまだ完全ではないと言っていたであろう? 冬の間にしっかりと治して貰わねばな」
 それもそうだろう。
 冬が終わり、春になればまた戦が始まる。
 その時に、忍びであり……ましてや忍軍の長である自分が、怪我が回復しておらずに使い物にならなければ、戦力的に下がってしまうというのは確実なのだ。
 ……と、佐助は思っていたが、どうやら幸村はそんな事を思っていた訳では無いらしい。
 何故なら、先程の言葉に続いたのは。
「秋に桜を見られなかった分も、春には存分に一緒に花見を楽しみたいのだからな」
 ああ、そこに話が行く訳?
 少しだけ呆れ混じりの溜息を付きながらも、それでもそんな幸村の事がやっぱり、とっても彼らしいと思ってしまう辺り、佐助もかなり末期なのかも知れないと自覚せずにはいられなかった。
「そういえば、旦那?」
 寝具の中に、半ば強引に連れ戻され、それでも上体は起こしたまま、佐助はずっと聞きたかった事を思い出して問いかける。
 そんな佐助の問いかけに、寝具の傍らに胡坐を落とし、質問の続きを促すような仕草で、幸村は首を傾げた。
「何かさあ……俺様の意識が無い間、ずっと旦那の話が聞こえていた気がするんだけど……何で?」
 そう、そもそもは、それがきっかけだった。
 あそこで、幸村が泣いていなかったら……泣き声が聞こえなかったら。
 掌に、涙の粒を感じる事が無ければ。
   もしかしたら、まだ自分は意識を戻していなかったかも知れない。
 それぐらいはっきりと……いや、あの時だけでは無い。
 暑かった日のことも、雨の沈んだ陽気も。
 そして……秋の守れなかった約束も。
 全部、自分は幸村の声で、それを知っている。
「何故も何も……俺がお前に話をするのが、そんなに不思議なのか? 佐助」
 そんな佐助の問いに、一瞬きょとんとした表情を浮かべ、当たり前の様に幸村がそう告げる。
「いや、そりゃ確かに、普通に考えれば全然不思議じゃないけど……俺様全く意識なかったんでしょ?」
「それは無論だ。どれだけ呼んでも目を開けないのだからな、時々さすがに腹立たしくなって、つねったりも叩いたりもしたぞ」
 それでも起きなかった事に、更に腹が立った……とか続けて幸村はふてくされた声を露わにして言っているが、さすがに佐助もそこまでされていたとは気が付かなかった。
「だが……例え意識があってもなくても、佐助は佐助だ」
 だから、色々と話したかったのだと。
 それはいつでも変わらないのだと。

 毎日毎日……一体どんな気分で。
 話しかけても相槌を打つでもない、ただ眠っているだけの相手に、ずっと話しかけていたのか。
 それを思うと、そんな事をさせて済まないと思うと同時に、どうしてもやはりこみ上げてくるものがある。
 ずっと耐えていたけど……これからも打ち明ける気は無いのだけど。
 でも今は、まだ怪我人で、気が弱くなっているから勘弁して欲しい。
 そんな自分への言い訳を心の中で告げると、佐助は腕を伸ばして、そして。
 そんな自分の行動に、僅かにびっくりした表情を浮かべた幸村の身体を、そのまま引き寄せて、ぎゅっと抱きしめていた。
「さ……佐助?」
「聞こえてたよ、旦那……。つねられた事とかそんな事は全然覚えてないし感じてなかったけど、旦那の声はずっと聞こえてた。俺をこの世に引き戻してくれたのは、旦那の声だったんだよ」
 佐助の行動に一瞬たじろいだ幸村だったが、穏やかに響く佐助の声に、抱き寄せられた体制のまま頭を胸元に埋め、ちゃんと佐助の言葉が自分に届いていると知らせる為に、軽く頷く。
 そのまま、暫くの間はお互い無言で、その暖かな気持ちを確かめていた。
 抱きしめた身体から伝わる体温。抱きしめられた胸元から響く鼓動。
 それは全て、生きているからこそ感じられるもので。

「……ああ、もう雪が降ってたんだね……気が付かなかった」
 その暖かさの中にも、僅かに肌寒いものを感じて佐助が開け放たれたままの障子の向こうへと目を走らせれば、今年初めての雪であろうか。
 音もなくしんしんと降り注いでいた。
 抱きしめられたまま、幸村もそちらに顔を向ければ確かに。
 いつの間に降り始めていたのか……もう外の景色はほんのりと白い。
「佐助…雪の花が咲いている」
 その雪景色を見た幸村の呟きに、佐助が抱きしめていた腕の力を弱めると、すっと伸びた幸村の指が、庭にある一本の気を指し示した。

 そう、その風景は……。
 木の枝に付いた雪が
 まるで花のようで……。

「思わぬところで花見が出来たな」

 そういう彼の人の笑みもまた、綻んだ花を感じさせる。

 そして、雪の花は降り注ぐ。
 満開の花を思わせるようになるまで、静かにしんしんと。

「次の秋には、絶対に秋の桜を見に行くとしますか、一緒にね、旦那」
 そして結ばれた新たな約束。
 今度は決して、破る事無く果たしたいという願いを込めて。

H20.6.23 脱稿
H27.9.01 改稿