涼風


 ふと…寝苦しさを覚えて、元就は目を覚ます。
 じっとりと肌に纏わりつく、夏の夜の寝苦しさを誘う汗。
 なるほど、四国の夜は安芸とは違い、こんなにも暑いものなのかと、そんな事を考えつつ身体をゆっくりと起こす。

 隣の床で寝ている男は、さすがにそんな寝苦しい暑さにも慣れているものなのか、全く起きる気配もなく、心地良さそうに寝入っていた。
 そんな様子に、ふうと軽く息を吐くとそのまま静かに起き上がると、襖を音を立てずに静かに開け、庭へと面した縁側へと腰を下ろす。

 夏の夜は、虫の声も聞こえずに静かなものだ。
 まるで、何の気配も感じず…まるでこの世界に自分ひとりになったような、そんな心地さえ覚えてしまう。
 外の風は、室内のそれとは違いまだ心地よく、先程の汗がすうっと引いていく。  その心地よい風に誘われるように、足元へと揃えられた草履…多分、庭を散策出来るようにと置かれていたものであろうか…足を伸ばしてそれを履き、元就は庭へと足を進めたのであった。

 暫し歩くと、庭の中ほどに池がある事に気が付く。
 水に当たり運ばれてくる風は、普通の風よりも涼しさを誘うもので。
 寝苦しい時に感じていた、夏特有の暑苦しさがそのまま消え去ってしまうようだ。
 ほとりに立てば、頭上の月が見事な円を水盤の上に映し出していた。
 そして、その月明かりによって映されるのは、自分の姿と…そして。
「どうした毛利…眠れなかったか?」
 一体いつの間に…?
 全くその気配を自分に感じさせぬままに、自分の背後から被さるように水面に姿を映す、その自分よりも長身の持ち主は、そう耳元で囁くように言ったのであった。
「我の近くに寄るな、折角涼しくなったというのに、それではまた暑くなる」
 その声の主…長曾我部元親は、元就のその言葉に僅かに距離を置き、自分の立つ場所を元就の横へと移動させた。
「あー…やっぱり暑かったか。悪いな、気が付かなかった。蚊帳でも張って襖開けとけば、ちっとは違ったんだろうがな」
 背後にあった長身の影、それが場所を変えて、自分の横へと移るのを、水面越しに元就は眺めていた。
 既に見慣れた筈のその姿なのに…何故だろうか、こうして別のものを介して見ると、また普段とは違う感じを受けるのは。
 そして、何故だろうか…?
 この男が隣にいるという、ただそれだけなのに。
 多分、それは今までの自分では持ち得なかった感情。
 この男と出会って初めて生じた心地の良さ。
 それは余りにも、自分の中でもまだ曖昧すぎて、どういった名前を付けたらよいのかも分からない…ただ、分かっているのは。
 こうして、二人で過す時間というのが、自分にとってはとても快いという事だけだ。
 ふと、気が付けば…自分の指に軽く触れる元親の手を感じる。
 多分、先程自分が暑いと言ったから、触るのを躊躇っているような、そんな仕草で。
 そんな元親の様子に、元就は僅かに息を零すと、躊躇いがちの元親の手を、元就の方から握り締めるように触れてみる。
 「……毛利?」
 自分の行動に驚いたのか、僅かに上擦った声で名を呼ぶ元親には目線もくれず、返事もせず。
 ただ、水面に移る二人の姿を、元就は見つめ続けていた。
 そうしていると、ふと、二人の視線が絡む。
 …水面の上で…。
 握られた手からは、互いの体温が伝わってくる。
 四国の夏の夜は暑いが、夜の風はそれでも涼しい。
 そして水辺の風は更に夏の夜にしては心地良く…繋がる手の温度すら丁度良く感じてしまう。
 そんな事を思っていたら、先程暑さに妨げられた睡魔が、元就の下へと訪れたようだ。
「眠いのか?毛利。眠れそうならこのまま寝ちまえよ、ちゃんと部屋まで運んでやるから」
 うつらうつらとし始めた元就の様子に気が付いてか、元親が繋がれた手を微かに引くと、そのまま、とさっ…と軽い音と共に、元就の身体は元親の方へと倒れこむ。
 耳元に当たる胸元からは、元親の規則正しい鼓動の音がとくとくと伝わり…。
 それがまた心地よく耳に響き、元就にとっては眠気を誘う要因となる。

 暑い夏の夜。
 それなのに…その暑さと同じ様な熱さを持つ、この男の側がこんなにも心地よいのは何故だろうか…?
 そんな事を考えながら、元就の意識は宵の闇にと落ちていったのだった。

H19.8.6 脱稿
H24.5.6 改稿