きみがため


 すぐ指先に、それを捕らえる事が出来る。
 こんなに近くにいるのに、どうしてこんなに不安な気持ちになるのか…?



 それは、夏の宵の事。
 確かに夏とはいえ、既に暦は秋を指し、宵ともなれば昼の暑さとは違った、肌に涼しい風が心地よく感じる。
 中天には、見事な円を描く月が浮かび、更にそれは縁側から伺える池の水面にも、まるで鏡に映したかの様に綺麗に浮かんでいた。

 そんな景色を眺めながら…。
 元就は、自分の隣に座る者へと手を伸ばして触れてみる。
「…一体、どうしたよ?」
 盃を持ち、酒を飲む手を止めながら、そんな元就の行動を不思議に思ったか、怪訝そうに元親が聞いてくる。
「いや…いい加減呑み過ぎでは無いのか? そなたは先程の宴席でも、かなり飲んでいたであろう」
「ん? ああ、でもちゃんと量は加減してるぜ? そんなにまだ酔っちゃいねえよ」
 多分、それは本当の事だろう。
 普段はどうなのかは知らないが、この男は隣に元就を置いての酒宴の席では、そこまで酔っ払っている様子を見た事が無い。
 …いや、初めの頃はそうではなかったような…気がする。
 そう、まだ二人がこの様な、懇ろになる前は。
 そもそもその当時は、自分も酒宴の席では長居はせず、すぐに自室や四国へと赴いた際の席では、用意された部屋へと引き上げてしまう事が多かったので、詳しくは元親の事などは覚えていないだけかも知れないが。
 それがいつしか、自国ではその姿勢は変わらずだが、四国での酒宴の席では、元親が必ず自分を隣へと置き、がっちりと離さないものだから…結局かなり遅い時間まで付き合う事となっていたのだ。
そして、その後はこうして二人で静かに夜を過ごす事となる。
 たわいのない話…殆ど話をしているのは元親の方だが、聞いている元就の方も、それは決して嫌なことではなく、話の合間合間に相槌を入れながら聞く事が多い。
 多分、時折自分の表情を伺うようにしつつ、元親が話を続けるのは…もしも自分が退屈そうにしていたのならば、すぐに話を切るつもりなのであろう。
 実際、連日徹夜が続いた際の酒宴の席では、話を聞いている最中にかなりの睡魔に襲われ、どうしようもなかったのだが、その時は早々に話を切り、眠りに付いたのである。
 大雑把なようでいて、意外とそういう所には細かな気配りが出来る男なのだ。

「こんだけいい月が出てるんだからよ、月見酒も美味いってもんだぜ」
 元親はそう言いながら笑い、盃を持っているのとは反対の空いた手で、元就の髪を梳く様にして撫でて来る。
「気安く我に触れるでない」
 まだ、こういう行為に慣れなくて、尚且つやはり素直になり切れない元就は、冷たい言葉と共に、そんな優しい手をすっと払いのけてしまうのだが。
 それでも…そんな自分の性格すらも、まるごと飲み込むかのような表情で、自分のとった態度にも言葉にも気分を害した様子は全く見せずに、再び盃を重ねる元親の様子に元就は安堵の息を小さく零しながらも、その胸の裡に生じていた僅かな不安をそっと抱え込んでいた。

『卿から貰うものは何も無い』
 先日の戦の際…元就にそう言った男がいた。
 何も持っていないから…と、その理由も述べていた。
 そう思うのならばそれでもいいと…元就はその時はそう思ったのだが。
 後になってこみ上げてきたこの不安は一体…?

 何も貰うものは無い…。
 その言葉は外れてはいまい。
 そう、かつての自分ならば。
 配下の者は全て自分の策の駒。
 そして自分自身もその策を演じる駒の一つに過ぎず、自らの生命すらも自分の『もの』だという実感は無かった。
 全てはこの中国を…毛利を存続させる為の駒に過ぎないと。
 そんな自分は、確かに何も持っていなかったに違いない。
 だが、今は違う。
 先程は、自分から伸ばされた手を振り払ったにも関わらず、その不安に突き動かされるように、元就は再び元親へと手を伸ばし、盃を持つその手に指先で触れる。
 今の自分は…何も持っていない訳では無い。
 かつての自分をいとも簡単に揺り動かし、がちがちに固めて自分を守っていた氷の面をあっけなく砕き落としたこの男が…自分の持つ大切なものなのだから。
 そして、それと同時に、以前ならば駒でしかなかった自分の生命すらも…。
今は…。
 もしも自分がそれを失えば、元親がどれだけ慟哭するかが分かるから。
 決して失くすわけにはいかないと…。
 指先から伝わってくる、酒精の所為か仄かにいつもよりも熱く感じるその温度が、改めて自分にそれを思わせていた。
「どっちかってーと、俺よりもお前の方が酔っているみたいだな、毛利」
 楽しそうにそう言うと元親は、空いている手で自分に触れている元就の手を掴むと、自分の方へとぐっと引き寄せて、縁台の上に持っていた盃を置いた。
「なっ…何をする! 離さぬか!」
 突然の元親の行動に驚いたか、そんな事を言いつつ元就は、掴まれていないもう一方の手で、元親の肩を思い切り何度も叩くが、いつの間にか自分を抱きこむ様にその腕が回されては、そんな抵抗すら出来ないものとなる。
 ゆっくりと、元就の背を撫で始める手の心地良さ。
 情欲を起こさせるような動きではなく、まるで何かを宥めるようなそれは、まるで元就の不安を全て打ち消すようで。
 …やっぱり自分の裡など、見透かされているのかも知れない。
 ずっと片隅に陣取ったままの不安も何もかも。
 その心地良さに、元就はゆったりと目を閉じたまま、身を委ねるのであった。
 

H20.8.15 脱稿