花見酒


「今から桜見に行こうぜ、桜!」
 四国の地に着いた途端、そんな事を言って元就を驚かせたのは、当然ながらこの四国の地の国主である元親だった。
 普段は殆ど、その表情に感情を表す事のない元就だが、どうもこの鬼相手ではそうにもいかない。
 勿論、自分は別にこのような地まで物見遊山に来た訳ではなく……あくまで中国の国主として訪問しているのだから、そんな要求は、さっくりと突っぱねるのが本来筋なのかもしれないが。

 季節はとうに夏を過ぎ、秋の気配が色濃く……じきに山の木々も鮮やかに色付くであろうそんな時期に、何をどう考えたら花見などという話が出て来るのか……?
 そんな疑問が、元親の言葉を跳ね除ける事が出来なかった理由なのだろうか。

   気が付けば元就は、右手を元親に引かれて、その案内の元にどんどんと山道に足を進める羽目になってしまっていた。

 その左の手で元就の手を取る元親の反対の手にあるのは、細い首の部分に紐が巻かれ、その紐を持ち下げている、酒がなみなみと注がれた徳利があり……。元就は余り酒は嗜む事はないのだが……いや、殆ど飲まないと言った方が正しいのかもしれない。だが、それとは正反対に、まるで湯水の如く飲むのが元親だ。
 余りにもそれが過ぎる事もあり、以前はその事でちょっとした実際喧嘩にもなった事もあったりしたが、それはまた余談。
 多分……本気でいわゆる『花見酒』を決め込むつもりなのだろうというのが伺える。
「その桜とやらは、まだ先なのか? 長曾我部」
 慣れない山道、元親が手を引いている為か普段のそれよりも歩が進み、多少息が上がってきた辺りで元就が問う。
「ん、ああ、もうちっと先だが……もう息切れか? 普段机にばかりしがみついてて、あんま動かないだろ? 運動不足なんじゃねえの?」
「国元を放って、ふらふとしている貴様に言われたくは無い」
「そりゃ失礼」
 元就の言葉に肩を竦めつつも、特に気を悪くした様子もなく、笑いながらそんな事を呟く元親が、その歩みをぴたりと止めた。
「お、もうこの辺りから咲き始めてるな」
 近くの木を見上げるように呟く元親に釣られるように、元就がその視線を同じように上へと移動させれば。

 そこにあったのは、確かに。
 薄紅色の小さな花。
 春に見るそれよりは、僅かながら小振りに見え、それ程咲き乱れている訳では無いが……確かにそれは桜の花。
 思わず、その光景に元就は目を瞠り、言葉を失う。
 そんな元就の様子に、口元に僅かに笑みを浮かべると、もうちょっと歩くぞと言って、元親が再び足を進めた。
 それに釣られるように、元就もその花に多少なりと思いを残しつつ、歩き出す。
 足を進めるごとに、段々と先程見た薄紅の色が増え……そして。
 元親がぴたりと足を止めたそこには、満開の桜が、まるで今の季節を感じさせないような……そんな風景を作り出していた。
 その光景に思わず、先程と同じく……いや、それ以上に驚き、元就は言葉を失った。
「びっくりしたか?この辺りの桜は毎年、春と秋に二度咲くんだよ。まあ尤も、秋の方が花も小さけりゃあ咲く花も少ないがな」
「……それでもこれだけ揃えば、見事なものよ」
 周囲に咲き乱れる桜の木々。
 秋に見る、その不思議な光景をどう表現したものか…暫しその花を眺めつつ、そんな事を元就は考えていた。
 つい、と着物の裾を軽く引かれれば、自分よりもかなり低い目線の位置に、元親のその隻眼の視線があり…桜の大木の根元に腰を下ろした元親が、自分の隣へと座るようにと元就を促していた。
 その要求に軽く頷きで応え、元親の隣へと腰を下ろすも、その視線は桜の花から動く事はなく。
 そして、花の甘い香りに微かに混じる、酒の香。
 持っていた徳利の口元の封を開け、既に元親は花見酒を始めていたのだった。
「こういうのも、たまにはいいもんだろ?」
「……ああ、確かに……な。良い風景を見せて貰った事については、礼を言おう」
 これがもしも、本来の予定を全てこなしての事だったら、きっともっと感謝できたに違いない、と、一言敢えて釘を刺しつつも、感謝の言葉が素直に口から出てきたのには、自分でも驚いた。
 だが……確かにこの秋と言う季節にはそぐわないのかもしれないが、いや、だからこそ……であろうか。
 季節と相反する風景が、まるでこの世のものとも違う、幻想的な雰囲気を醸し出している。
 そんな穏やかな日を過ごすのも、たまには悪くない。 だから、素直にその事に対しての礼の言葉が、すらっと出てきたのであろう。
 そして、ちょっとした小言混じりとはいえ、元就が素直に謝辞を言った事に、元親も多少は驚いたか、その表情に僅かにそんな風なものを浮かべたが、すぐにそれはいつもの笑みへと戻り、元就が喜んでいる様子をしっかりと受け止めつつ盃を重ねる。
 ……が、ふと、こういう時に悪戯心が起きるのも元親の特性であろうか。
 よっと……と呟くと同時に、そのまま寝転がるように体をそらし。
 そして、その頭を隣へと腰を下ろしていた元就の膝へと預けたのである。
「……いきなりどういうつもりだ……これは?」
 機嫌が良かったのが一転、低い声でその元親の行動を咎めるように言う元就の顔を見上げ、にんまりと笑いつつ元親が呟く。
「いいもんだねえ、綺麗な桜と美人の元就。両手に花どころか視線の先は、全てたおやかな花……ってか?」
 元親の言葉に、一瞬の沈黙の後に……かっと顔を赤くし、そんな事を言った元親の額を、軽く手でピシッと叩き「調子に乗るでない!」と怒声で言うも、元親は一瞬こそ痛みに顔を歪めつつも、その膝から頭を除ける様子もなく。
 そして、元就も……そのままその体勢を許していたのであった。
 勿論、時折「退くがいい、この痴れ者が」とか言いながら叩いたりはしたが、それが本気で無い事は当然ながら、元親にも分かっていたであろう。
 先程の言葉に、顔どころか耳まで桜の色よりもはるかに紅い色に染まったのも……怒りではなくて、それはまた別の意味だという事も。
 ぺしぺしと元親を叩くその手が、時折元親の銀の髪を滑り、まるで叩き撫でる様なそんな仕草になっていたのは…もしかすると無意識の行動なのかもしれないけれど、それでも、元就が本気で拒んでいない事が分かるから。

 だからそのまま……。
 互いに言葉に出さずとも、この穏やかな時間を二人で過ごす事に、異論はなかった。





 季節はもうじき冷たい冬が間近まで来ているが、ここだけはまるで桜と同じく小春日和を思わせる雰囲気であった。
  

H19.11.10 脱稿